学校が生徒を救えない現実

四十年前、初めて高等学校の教員になって赴任した学校では、入学した生徒が二年生になり修学旅行に行くことは当たり前ではありませんでした。卒業できずに退学する生徒が多くいました、学校という組織では救いきれなかった生徒たちでした。

高等学校では規定の出席日数を満たさなければ、進級も卒業もできない。それを満たした上で、科目ごとに出席日数が足りて成績もクリアする・・・。義務教育であるため、進級認定も卒業判定もない中学校をなんとか卒業した生徒たちには、あまりに高いハードルでした。

家庭の事情であっても、生徒本人がどうにもしようもない理由があっても規定は変わりません。担任したクラスに両親がともにいなくなった生徒がいました、二人で福祉の窓口を訪ね歩いたこともありました。なんとか二年生に進級し、戻ってきたお父さんから元気な声で「うちのチビがお世話になりました!」とお礼の電話をいただいたことを覚えています。

彼女は二年生に進級したけれど、途中で退学していきました。もう一度一年生の担任になった自分には、後ろ姿を見送りながら人を信じて生きてほしいと願うことしかできませんでした。数年経って、学校に明るい声で「結婚して赤ちゃんが生まれた」と喜びの電話をいただきました。(女の子が母親になったと知らせるのは、よっぽどのことなのですよと、同席していた女性教員に教えられました。)

高校の卒業証書があれば・・・

当時の日本はバブル経済の最中でした、高校の卒業証書と運転免許証があればやっていける時代だったかもしれません。それでも、多くの生徒が卒業をあきらめ、学校を去っていったのです。

生徒指導上の規定で、停学になる生徒もいました。停学中は毎日、家庭訪問を欠かさないのが常でした。停学中の生徒が学校に提出する書類を持ってきたことがありました、校内には入れないので門の外で受け取りました。昼時だったので近くの食堂で一緒にご飯を食べて、日々の課題の進み具合などを話して別れました。その場では給料をもらっている私がおごったのですけど、あとで高校生の彼にしっかりおごり返されました。

彼は、二年生への進級ができずもう一度一年生をやり直すことになりました。二年生になってしばらくして、お母さんが学校にいらした際にお話しする機会がありました。なかなか停学があけないんですよ、と打ち明けられました。私も一年生の担任でしたけれど、クラスが違うとなすすべがありませんでした。さよならも言えないまま彼は退学し、二十年がたってしまいました。

願いがかなって再会

彼の弟さんと知り合った縁で、十数年前のある日の夜に再会することが叶いました。どんな風に、話せばいいのか・・そのように考えながら正門のところに歩いて行くと、出会ったその場で抱き合ってしまいました・・・言葉なんていらなかった、奇跡のようでした。彼には娘さんがいて、二人は彼が在籍した学校に通っているというのです。

彼は一年生の時に撮影した写真を持ってきてくれて、誰がどこに写っている・・という話に花が咲きました。卒業はしなかったけれど、彼の大切は青春がそこにありました。そして、しっかりと一晩おごられてしまったのです。

二年前の夜、自宅に昔の同僚から電話がありました。彼が亡くなったというのです。翌日のニュースで彼の名前を見て、顔を覆いました。まだおごり返せてないのに、勝手にまた会えると信じていたのに。何で突然こんなことが起こるのか、悲しみなのか怒りなのかさえわからない思いが募りました。

葬儀の会場を教えていただき、お花を届けてもらうことにしました。一緒に一晩飲みながら昔話をするはずだったのに、お花を送るなんてことになってしまい、葬儀会場に行く道のりは一歩一歩が苦痛でした。

弟さんに案内していただき、白髪になられたお母さんにご挨拶をすることができました。四十年も昔の担任のことを覚えていてくださいました。二人で手を握りながら昔のことを話しました、「あの子は一生懸命に働いて、働いてやってきた」とおっしゃいました。

お母さんの手から悔しさと、悲しみがひしひしと伝わってきました。私は遺体を前にすると声がでませんでした、しばらく涙を拭くばかりでした。

時間が経ち・・・弔問に訪れる多くの人々の列を見、亡き父を送る三人の娘さんたちの言葉を聞きました、彼がどんなに慕われて生きていたかを知ることができました。

「父はいつも大勢の人に囲まれて、誰よりも人を愛する人でした・・・と」。小さなお孫さんが、彼のおでこをなでていました。きっと、やさしいお爺さんだったのだろうと思います。

ここに深く哀悼の意を表し、残された者としてできることをやってゆこうと思います。