ふるさとに帰ろうよ:その1
高校生だった頃の思い出
昭和40年代に高校時代を過ごした、技術が未来を開く・・そんな時代の流行の中で生きていた。迷うことなく、理科は物理と化学を選択した。生物をとると大学出ても就職がほぼない時代だった。バイオテクノロジーの時代の遥か前の、電子工学が花形の時代だった。
3年生になってクラスメートと楽しく過ごしながらも、勉強には熱が入らなかった。数学Ⅰ・ⅡB・Ⅲ、物理Ⅰ・Ⅱ、化学Ⅰ・Ⅱ、世界史、英語、現代文・古典・漢文、やらねばならない範囲が山ほどあるのに、追い立てられて勉強するのはイヤだった(なんてわがままな奴だ!)。私学の併願校は合格してけれど、本命の大学は不合格、浪人することに決めた。
予備校の思い出
予備校にはちゃんと入学式があった、「入学おめでとうございます!」のあいさつにあっけに取られた。そして讃美歌を初めて歌った。授業は高校より大きな教室で受けた、座席はうしろの方だった。仲良くなった連中とわいわい過ごしていると、「ここらは潜水艦地帯やな」と担任は言う。それは、そのうち成績が下がるとの意味だった。
5月の連休も、予習のために費やした。京橋の紀伊國屋書店でみた電子工学の専門書には何の魅力も感じなかった。そして夏が来た、現役の皆さんが夏期講習に励んでいる時には、近所のパチンコ屋に通っていた。予備校担任の預言は的中したのだ。やる気をなくして、ふらついていた。
パチンコ屋を出ると夏の日差しが眩しかった
幼稚園入園前に、祖母の里で過ごした日々の記憶が蘇った。京都市の北部の大原、そこから山中にはいると百井(ももい)の集落がある。タクシーでゆけるのはここまで。そこから歩いて、もっと北にある大見(おおみ)を目指した。木漏れ日の中、先をあるく祖母の兄さんは一升瓶をぶら下げていたことまで覚えている。
自分にとって自然なのは、工学部で電子工学を専攻することではないな・・。そんなときに農学部林学科という専攻を知った・・ここに決めた。樹木のことなんてまったう知らないくせに、決めてしまった。のちに、大学教官からいただいた学位は「樹木は・く・ち」であった。
紆余曲折は続く
林学科の同級生は野生的だった、1回生の夏に三宅島へキャンプに出かけて初めてスノーケリング体験をした。それが元で、こんどは海に惹かれてゆく。大学3回生になる春に、スクーバを担いで西表島へ潜りに行った。ニコノスⅢ+28mm水中専用レンズとセコニック・マリンメーターで撮影を始めた。

舟浦湾での最初の潜水で撮影したオオウミキノコ:ニコノスⅢ+28mm水中専用レンズ
大学3回生の夏には、琉球大学理学部附属瀬底臨海実験所へ遊学した。宿泊棟を出ると青いサンゴ礁の海を白いアジサシの群れが飛んでいった。「ここに来なければ一生後悔する」と心に思った、大学院理学研究科サンゴ礁学専攻へと進んだ。生物系の大学院生にはまともな就職先がない時代だった、大学在学中に教員免許を取得するための講義を大急ぎで取って間に合わせた。(ぎりぎりセーフ、しかし教育実習は間に合わなかった)

瀬底島の海とギンネムの茂み:ニコノスⅢ+35mm水陸両用レンズで撮影
私的な教訓
定められた目標に向かって、一直線に進む・・なんて人生もたまにあるかもしれない。自分の歩んだ道はと振り返ると紆余曲折だらけ。林学科の四年間は無駄だった?と問われても、そうとは思わない。次に向かう一歩だったと思う。
昭和33年生まれなので小学校時代から、中学受験の準備をして、六年間一貫教育の中学校・高等学校に入学して、大学進学、そして狙い通りの企業に就職・・というような、無駄なく設計された人生とは随分違った道を歩んできたように見える。やさぐれた日々もあったけど、その時々の彩(いろどり)もあった。授かった子どもたちも、レールに乗せようと考えることはなく、それぞれの心の赴くように生きてほしいと願った。
