こども基本法を読んでみた
平日は高校で授業をして、週末はフリースクールで学校に行かない生徒と過ごし始めて半年が経った。
教育基本法は読んでいたけれど、こども基本法も読むようになった。
こども基本法のさだめるこども施策
「すべてのこどもは年齢や発達の程度に応じて意見が尊重され、こどもの今とこれからにとって、もっともよいことが優先して考えられる。」とある。週末は、学校に行かないこどもたちが自己決定できる場をつくり、その声に耳を傾けてきた。ていねいに、全身の感覚を研ぎ澄ませて。
高校生にもこども基本法
高校に来ているこどもたちは、授業中に教師に向かって意見することもなく、授業がわかりにくくても、黙って座っている。今年度になって、高校でもようやく観点別評価が全学年で実施されているけれど、定期テストの出来で生徒を評価してきた学校文化はそう簡単に変わるものではなさそうだ。
学校に来て、わからない授業に耐えていても、テストで点数が出せなければ、「出来ない生徒」とされてしまう。そんな生徒たちにとって、もっともよいことを優先して考えてみた。この子達ができないことが、何なのか?どうすれば「できない」を「できる」に変えることができるのか。
教科書の言葉づかいはユーザーフレンドリーでない、食物連鎖の矢印が何を表すか明記されていない。学校に行かないこどもたちに注いできた感覚を使って、教科書を読んでみると、およそユニバーサルデザインからは遠いなあとわかる。「ここは読みにくいやろ?」と語りかけると、全体がしんと受け止めている。
これからの教員養成のありかた
わからない教科書用語をゴリ押しで、大音量で伝えても生徒の耳には入らないだろうな。そんなことをしていた時も、振り返れば確かにあった。これまでの教員は、教育基本法・学校教育法を読んでいるけれど、これからの教員は、こども基本法も読んだ方が良さそうだと思う。そうすれば、学校に行かないこどもも学校に来てくれるかもしれない。