「出席扱い」という名の交渉カード
歪んだ構造:フリースクールは学校の「下請け」ではない
近年、ICTを活用した自宅学習を「出席扱い」にする仕組みが広がっています。一見、多様な学びを保障する柔軟な進歩に思えますが、実態は「出席」というステータスを交渉材料にした、親子のコントロール手段に変質しています。
この論理において、「出席扱い」は子供の努力を正当に評価するための指標ではなく、学校復帰というゴールへ誘導するための「報酬」や「取引材料」として機能しています。本来、教育の目的は子供の知的好奇心を満たし、健やかな成長を支えることにあるはずです。しかし、このシステムにおいては、学びの内容よりも「出席」という記号を積み上げることが最優先され、それが親や子を縛り付ける強力な呪縛となっているのです。
「出席」が唯一絶対の価値を持つようになると、社会にはさらなる歪みが生まれます。それが、資料でも指摘されている「不登校ビジネス」の暗躍です。
「出席」が行政や学校との交渉における「通貨」としての価値を持ち始めると、親は藁をも掴む思いでその「数字」を求めます。その焦燥感に付け込み、「出席扱いを保証する」という看板を掲げたサービスが市場に流通し始めるのです。本来の学びの質ではなく、「出席という権利の切り売り」が商品化される構造は、まさに教育の空洞化と言わざるを得ません。
私たちは「出席」よりも大切なものを見失っていないか?
「教育とは何か」という根源的な問いを再定義する必要があります。教育の目的は、単に「子供に学校の門をくぐらせること」なのでしょうか。それとも、「子供が安心して成長し、その未来を豊かにすること」なのでしょうか。
「出席日数」という数字を積み上げることに固執し、その背後にいる子供の心の叫びや、安全な環境で学ぶ権利を軽視する現状は、明らかなシステム不全です。子供が学校以外の場所で笑顔を取り戻し、自分なりのペースで学んでいるのであれば、それを「学校復帰の妨げ」と断じるのは、子供の尊厳に対する侵害でしかありません。
「出席」という呪縛を解き放ち、子供の命と心の平穏を最優先に考える社会へ。教育の物差しを「学校に通ったか否か」という形式から、「その子がその子らしく、明日への希望を持てているか」という実質へとシフトしていくこと。それこそが、今求められている真の「不登校支援」のはずです。
この記事は東洋経済オンラインに共感を覚えて執筆しました。
https://toyokeizai.net/articles/-/942088?display=b
